ニホンオオカミが絶滅したのは明治末期の1905年とされています。最後に捕獲された個体の記録が根拠ですが、その後もしばらくは目撃例はあったようです。
かつて神とも崇められた頂点捕食者はなぜ絶滅してしまったのでしょうか?ここではその原因と、絶滅によって引き起こされたであろう影響について記載します。別の英知をお持ちの方がいらっしゃれば、随時コメント欄に記載ください。
目次
ニホンオオカミ絶滅の原因/理由
生息地の減少という説
江戸の終わり頃、ニホンオオカミは相当に数を減らしていたそうです。この生き物を見たことがある人は既に少なく、出てくれば大騒ぎになったとか、捕獲すれば見世物になるなど、当時すでに希少だったことを窺わせる文献があります。
個体数が大幅に減った理由として、生息地の減少が挙げられます。
現代に生きる我々は、昔は自然がたくさんあったと思いがちですが、江戸期には材木用途などでハゲ山になるくらい山林が切り開かれていた地域も多く、生息域の減少は少なからず影響したでしょう。
とは言え、日本全体で見ればこれはあくまで個体数減少要因の1つでしかないようで、明治初期の時点では蝦夷地や奥州にはまだニホンオオカミの記録がたくさん存在しています。
ジステンバーや狂犬病などの伝染病説
江戸期を通じてニホンオオカミの個体数を大きく減らした要因は、海外から入ったジステンバーによるものだったという説もあります。
時代背景を考えれば長崎経由なのは間違い無いだろうと思われます。
それに加え、江戸中期からは狂犬病が広がり始めます。最初の流行は中国地方だったという話もあるのですが、ともあれ狂犬病に冒された狼(=実際には野犬も相当に含まれていたはず)が人を襲ったという記録が多々あり、結果としてオオカミ駆除に拍車がかかります。
藩の記録に「オオカミが市街地で大暴れした」といったような記述もあるのですが、描写から判断する限り明らかにニホンオオカミではないようなものも多々..。
それでも、それらを皆で撲殺したといった記述が多く(現代の価値観だと不快ですが..)、狂犬病に対して人々が過敏になり、イヌ科に対して強烈な悪意を持っていた可能性があります。
狂犬病は発症すればほぼ助からない病気で、現代においても脅威です。(なので飼い犬のワクチン接種が義務付けられている)
江戸期においては感染源の動物は死神同然に扱われていたのかもしれません。
宿主をコントロールするウイルス
余談ながら、狂犬病はウイルスが宿主をコントロールする典型的な病気で、これにかかると非常に攻撃的になってしまいます。人であろうと動物であろうと、見境なく襲って噛みつき、結果ウイルスにとっての新たな拡散と繁栄につながります。
似た事例としては猫経由で人に感染するトキソプラズマがあります。これに感染したネズミは、猫を恐れるどころか猫の尿の匂いが大好きになり、結果的にあっけなく猫に捕食されます。トキソプラズマはまんまと猫にやどり、次の宿主へと拡大の道を探ります。
トキソプラズマが猫経由で人に感染すると、男性は無謀かつ反社会的な性格が強まり、女性はだらしなかったり、性に開放的になるのだとか。これは見境ない性交渉へ宿主を導き、新たな拡大につなげるため。
微生物や寄生虫による宿主コントロールは非常に奥深く、腸内細菌の組成によって性格や行動が変わることも今や医学の常識となりつつあります。
話が大幅にそれました..。
人間による駆除説
人間による駆除..まあ、当たり前なのですが、結局はここに行き着きます。伝染病などで江戸期に個体数を減らしたニホンオオカミへのトドメは、毒殺をはじめとする猛烈な駆除圧です。
酪農などの畜産の普及
江戸期後半から明治にかけて海外の文化がどっと入ってくると、例えば奥州では新たな産業として羊毛の生産が開始されたり、乳牛の育成と開墾による牧場整備などが進みます。(元々国内有数の馬産地としての下地があった)
当然ながら家畜はニホンオオカミにとって好都合な捕食対象で、人間との衝突の最たる要因となります。この構図は現代においても全く変わらず、オオカミ再導入に成功したイエローストーン国立公園においても、公園周辺にオオカミを射殺したい牧場主がたくさん存在します。
奥州で新たな産業として芽吹き始めた酪農や羊毛生産を推し進めるにはニホンオオカミは邪魔者でしかなく、行政も報償金を出して駆除政策が展開された歴史があります。
毒殺による殲滅
明治期の文明開花は北海道開拓の幕開けでもあります。現在の日高エリアなどは新たな馬産地として馬の育成事業が展開され始めていたのですが、例えば10日ほどで子馬90匹が全てエゾオオカミ(ニホンオオカミとは亜種の間柄)によって食い殺されたという記録も。
結果、アメリカから入ってきていた「硝酸ストリキニーネ」という毒薬が使用されるに至ります。生肉に混ぜて野にばらまいたところ、これがとても良くきいたのだそうです。もちろんエゾオオカミだけでなく、多くのキツネなども犠牲になっています。
開拓使は明治10年からオオカミ退治の奨励に乗り出し、1頭の捕獲に2円の賞金を出した。翌11年には7円に値上げ、15年にはオオカミ被害の多い札幌地方では10円にした。
〜中略〜
この奨励制度で捕獲された狼の数は、ほぼ10年で1539頭だった。引用:ニホンオオカミ の最後 遠藤公男 著
オオカミに限らず、頂点捕食者の絶対数は決して多くはなく、とても広い縄張りに1〜数頭というケースが大半です。(ネコ科は単独、犬科は1パック)
また、繁殖ペースは遅く、個体数が減ってしまうと回復までの時間は長くかかります。これは大型の肉食獣だけでなく、大型猛禽類や大型の肉食魚、そしてサメなども同様です。
毒殺によって急激に数を減らしていったエゾオオカミは、馬産地の振興とともに姿を消し、本州に先立つ1896年(明治29年)頃に絶滅したとされています。
この時の毒殺があまりに効いたせいか、同じく「硝酸ストリキニーネ」が奥州にも持ち込まれ、牧羊場で使用されています。以後奥州でも同じ光景が繰り広げられた事は想像に難くありません。
エゾシカが激減していたという背景は重要
当初、新たに起こった馬産事業を壊滅させかねなかったエゾオオカミによる襲撃ですが、その背景としてエゾシカが激減していたという背景は決して無視できません。
北海道開拓団にとってエゾシカは貴重な食料資源だったわけですが、猛烈に乱獲され、毛皮や缶詰として輸出まで始まっていました。明治になってわずか数年の話です。エゾオオカミと人間との「資源の奪い合い」の象徴が牧場襲撃だったとみて間違い無いように思います。
その後、明治12年の記録的な豪雪被害が重なり、エゾシカは絶滅が危惧される存在に。よって禁猟となったのですが、オオカミたちからすればそれは知ったことではなく、個体数の減ったエゾシカの代わりに牛や馬を襲うようになるのは自然な流れと言えます。
この時に生き残ったエゾシカたちはその後も数がなかなか回復せず、保護動物としてごく近年まで狩猟が制限されていました。
この間にエゾシカを食べるという食文化は完全に衰退し、21世紀に入って行政が「鹿の美味しい食べ方」などを提示して積極定期に活用推進に動いているものの、まだまだ活用仕切れていないのが実状です。人類に対しての強烈なブーメランと受け止めて良い様に思います。
尚、オオカミ絶滅から鹿が急増するまで、なぜ100年ものタイムラグがあったのかは諸説ありますが、下記の記事にざっとまとめましたのでご参照ください。
報奨金による捕獲と撲殺
By PHGCOM – Own work by uploader, photographed at Yasukuni Shrine, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7357335
ニホンオオカミは牧場主だけでなく、一般の猟師さんたち(普段は農民)にも多く捕獲・殺害されていたようです。理由はオオカミにかけられた報奨金です。
明治期には既にニホンオオカミは「悪」となっており、役場が高額な報奨金を提示したことから罠による捕獲が加速していったようです。それは落とし穴のようなものだったり、エサを引くと重石が落ちてくるものだったり、また一部の猟師さんらは火縄銃、さらには軍から払い下げられた村田銃なども明治に入って流通していきます。
人々はなぜ山の神を撲殺するようになってしまったのでしょうか?
明治になって一般人の狩猟が解禁になった事も大きいのですが、西洋文明による価値観の転換(=伝統的価値観の全否定)も大きかったのかもしれません。
ニホンオオカミ絶滅による影響
北海道の開拓が進み、近代文明が展開されていく過程で、エゾオオカミだけでなくヒグマによる襲撃も含めて人類は大自然の洗礼を受けるわけですが、最後には文明開花の力で押さえつけ今に至ります。
この流れはおそらくは世界共通で、長閑な牧場風景の影には頂点捕食者たちに対する猛烈な制圧劇が展開された事を、私たちは頭の片隅にでも覚えていてあげるのが、せめてもの供養ではないでしょうか。
そして鹿が激増する
一般的に、頂点捕食者が消えるとその時点で被捕食者、つまり鹿などの増加が始まります。有名なイエローストーン国立公園では、最後のオオカミが撃ち殺された年からワピチ(アメリカ赤鹿)による猛烈な食圧が展開され、新たなポプラが育たなくなったという話があります。
北海道においては、先述のように鹿の激増まで相当なタイムラグがあるのですが、イエローストーンと異なるのは、鹿自体も捕獲圧で事前に大きく数を減らしていたという点があります。
本州においては、ニホンオオカミが絶滅した1905年以降も目撃例は多々あったらしく、戦後くらいまでは割と「遠吠えが聞こえる」などの話が存在していたそうで、一部の生き残りが捕食圧として機能していたのかもしれません。
わずか数頭のオオカミが「鹿の増加を抑えるほど食べられるわけがない」と豪語する識者(っぽい人)もいるのですが、オオカミ(頂点捕食者)の存在は鹿など(被捕食者)の行動パターンを大きく変える事が知られています。
その地域にオオカミが「いる事」で鹿たちは頻繁に移動をし、食い尽くすような食べ方もやめ、出産は減り、個体数が抑制されます。「どこかにオオカミがいる」だけで。
また、ニホンオオカミに加え人間による捕食圧がそれなりにあった事からも、鹿の激増は防げていた可能性はあります。
その意味では「人間が山に入らなくなった」事が鹿の活動を放漫にし、繁殖の加速に影響しているのも間違いはないように思います。
アライグマの増加も防げた?
70年代のアライグマブームでペット化が進んだアライグマ。凶暴な性格で山林に捨てられたり、脱走した個体が野生化し、全国で個体数を増やしています。
有力な捕食者が存在しないため、猟友会が駆除して仕方なく埋蔵もしくは焼却処分しています。(このあたりの一連の流れは本当に最悪です)
ニホンオオカミが生き残っていた場合、捕食したのは間違い無いでしょう。
70年代にアメリカ東部で「森から鳥がいなくなる」という出来事がありました。とある学者らが調べ続けたところ、アライグマをはじめとする下位の捕食者にたどり着きました。特にアライグマは木登りが上手で手先が器用なため、鳥の巣から卵を略奪する技に長けていたそうです。とは言え、北米はもともとアライグマのいた地域。鳥の巣からの略奪は自然界の営みだと言えます。
問題の本質は、アライグマなどを捕食していたコヨーテを徹底的に駆除していた点にありました。
コヨーテというのは「ひとまわり小さなオオカミ」といったところで、ハイイロオオカミとは近縁種。頂点捕食者の一つ下あたりに位置します。アメリカでもオオカミは迫害され、全土からほぼ姿を消していました。代わりに台頭したのがコヨーテだったわけですが、人類はそれすらも排除にかかったわけです。
コヨーテの駆除をやめたところ、アライグマやフクロネズミなどの個体数は調整され、森には鳥が戻ってきたというハッピーエンドがあります。
この例ではアライグマですが、他にもレジャーハンティングをしまくっていたイエネコがコヨーテによって個体調整され、森が守られたという話もあります。
コヨーテに限らず、オオカミも時には齧歯類などの小さな獲物を捕食するため、アライグマであっても捕食対象になるのは想像に難くありません。
捕食者と被捕食者の関係は自然界に共通の事象。ニホンオオカミの絶滅と鹿や猪の増加は切り離して考える事はできないでしょう。
株式会社Forema(フォレマ) 代表。生態系保全活動の傍ら、自社ラボで犬と猫の腸内細菌/口腔細菌の解析を中心に、自然環境中の微生物叢解析なども含め広く研究を行なっています。土壌細菌育成の一環として有機栽培にも尽力。基本理念は自然崇拝。お肉は週2回くらいまで。